海藻の名前にも方言がある。第2回は、黄藻植物門褐藻綱コンブ目コンブ科カジメ属の1種、アントクメEcklonia radicosa (Kjellman) Okamuraについて(写真)。水深2〜20mの深所に生育し、長さが30cmから2mに達する大型の海藻で、一見ワカメに似るけれども茎が短く、葉は羽状にならずに楕円形で表面にシワがある。日本特産の昆布で、主に太平洋側の黒潮の流れに洗われる海域に飛び飛びに分布する。この海藻の生育地は、北は千葉県房総半島先端の館山に始まって、伊豆大島、式根島、紀伊半島、四国南端を経て、南は鹿児島県馬毛島にいたるが、なぜか半島の先端部や島が多い。淡水が流れ出る河川を避けているのか、環境の人工化に耐えられないのか、あるいは「どん深」な海底(海岸から急に深くなる暗い環境)を好んでいるのか、理由は定かではない。

日本海側の島根県隠岐島と山口県北浦や東シナ海側の熊本県天草島や長崎県からも記録がある。ちなみに、長崎県の五島列島と野母崎は、明治12(1879)年に日本を訪れた蒸気船ヴェガ号(SS Vega、北極海航路に初めて成功した探検船)に乗船したキェルマン(Frans Reinhold Kjellman, 1846−1907)がアントクメを採集したタイプ産地である。そしてキェルマンは1885年にLaminaria radicosa を新種として発表したが、それが日本で古くから名前を持つ藻であることに気づいたのが岡村金太郎(1867–1935)であった。岡村は、昭和2(1927)年に1属1種となる新属Eckloniopsis(アントクメ属)を提唱し、その後90年近くの間、アントクメの学名にはEckloniopsis radicosa (Kjellman) Okamuraが使われてきたが、近年の分子系統学的解析の結果、Ecklonia(カジメ属)に落ち着いている。

実は岡村がアントクメの和名を選んだ当時、この海藻には複数の日本名があった。「あんとくわかめ」「あんとくめ」(土佐)、「あんどく」(伊予)、「しわめ」(伊豆賀茂郡)である。そのなかから「あんとくめ」を採用し定着させたのが岡村である。おそらく「あんとくわかめ)」という名は、ワカメに似るが浅い磯に生えるワカメとはどことなく違うので「あんとく」が付けられたもので、それを縮めたのが「あんとくめ」だったと思われる。伊予の「あんどく」にいたってはもう「め」も略して「と」が濁ってしまった。現代では「あんろく」(高知)や「あんろくめ」(和歌山)と呼ぶ地域もある。さらに、県下の水産部の地方名が精査された鹿児島県では、「あめのり」「かじめ」「こうとわ」「ことわ」「とく」「め」「めのは」「わかめ」など多くの異称が知られている(データの元にした多くの出典情報は拙著をご覧いただきたい:北山太樹 2020. コラム カモガシラノリの謎–地方食用海藻の魅力–. 海洋と生物 42: 543–546)。

一方、伊豆半島の「しわめ」は、葉面にシワが多いワカメという意味であるが、岡村は伊豆大島から房総のものまで含めて品種f. illobataとして区別したうえで、この伊豆の地方名「シワメ」をあてたことがある。今日、アントクメの品種は識別されなくなったが、方言に関しては、関東のシワメ圏と関西のアントクメ圏とに分けることが可能かもしれない(このことから、アントクメを食べる文化が土佐や紀伊から黒潮に乗って伊豆に伝わったとは考えにくい)。伊豆では「あんとく」と名付けたい要因がなかったのだろう。

ところがである。平成18(2006)年に国立科学博物館の自然史セミナーを伊豆半島の
西伊豆町仁科にあった民宿弘波荘で開催したとき、私が海岸で拾ったアントクメをみて、同
荘の女将さんが「とんとんめ」なる珍名を教えてくれた。それは、アントクメを湯通しした後(写真。加熱すると緑色になる)、まな板の上に置いて粘りがでるまで包丁でトントンと叩いて切り刻むからだそうで、なるほどセミナー参加者のみなさんと美味しくいただく前に「とんとん」布であることを音で確認することができた。保存が利かず、浜で打ち上がった藻体を採藻したらその日のうちに調理して食べるために遠くへは流通できないことから、「トントンメ」を、当時は知る人ぞ知る西伊豆の新方言ではないかと思っていたが、インターネットの普及が進んで、いまでは「シワメ」よりも定着した感がある。

なお、アントクメ(しわめ)の料理法は、ウェブサイト「ぼうずコンニャクの市場魚介類図鑑( https://www.zukan-bouz.com )」に紹介されている。執筆者の藤原昌高さんは平成27(2015)年に『美味しいマイナー魚介図鑑』を上梓され、その中でマイナー食用海藻10種を取り上げている。

面白いのは、同じ西伊豆の海岸で、アントクメのことを「シワメ」でも「トントンメ」でもなく、「みちなしめ」と呼ぶ人に出会ったことである(お名前を聞いておけばよかったと後悔している)。実は伊豆にはアントクメと姿がよく似た海藻ヒロメも生育しており、両者を区別するために、葉面の中央にスジ(中肋)を持つヒロメを「みちめ」、スジのないアントクメを「みちなしめ」と呼んでいたのではなかろうか(房総半島では、スジのないアオワカメが「みちなしわかめ」と呼ばれているところがある)。西伊豆でトントンメを食してから20年が経った今日、「みちなしめ」が使われている気配がないので、「とんとんめ」に負け、絶滅和名となってしまったのだろうか、と心配になる今日この頃である。

 さて、標準和名となった「アントクメ」の語源である。「文治元(1185)年、壇の浦の戦いに敗れた平家と運命をともにして入水(じゅすい)した安徳帝による」という、人名を由来とした「安徳和布」説である。この説明は、昭和・平成時代に昆布研究で活躍し、コンブ博士と称された川嶋昭二(1927–2020)が著した『日本産コンブ類』(1989)、『改訂普及版 日本産コンブ類』(1993)のアントクメのなかに書かれているものであるが、その説について根拠となる資料が示されてなく、川嶋以前にこの説を唱えた文献もいまのところ見つからない。だから、安徳布説は川嶋オリジナルの説かもしれないし、岡村門下からの口伝だったかもしれないし、水産学界古来の定説だったのかもしれないし、単に私が知らない文献があるのかもしれない。別の意味を持つ「あんとく」が伊予弁や土佐弁などにあるのかどうかも含め、まだまだ調べなければ真相は見えてはこない・・・、とここまで書いて心配になり、手持ちの国語辞書をいくつか引いてみたら、びっくり仰天。昭和33(1958)年発行の三省堂『新版 広辞林』や昭和61(1986)年発行の小学館『国語大辞典 言泉』に「安徳布」が載っていた。

 あんとくめ【安徳布】(名)褐藻類の海草。関東以西の海岸にはえ、全体がアラメに似て一本の茎の先に・・・(中略)春、採って食用とする。 [広辞林]

 あんとくめ【安徳布】(名)褐藻類コンブ科の一種。房総半島以西九州の両沿岸などの干満線間や浅海の岩礁上に生える。茎は短く扁平。(中略)安徳若布。 [言泉]

 おそらく他にも「安徳布」と漢字表記を入れた辞書があるはず(たとえば、『言泉』の語釈は、小学館『日本国語大辞典』とほぼ同じ)。筆者の持っている辞書は限られているので、近々札幌へ出張したときに北海道大学におられる重度の辞書マニアの藻類研究者にお願いして調べてもらうつもりである。専門書ばかり見ていたので盲点だったが、気を取り直して考えてみれば、これらの辞書は語釈でアントクメの「安徳」が安徳天皇に由来するとは述べているわけではなく、ただ「あんとく」に漢字の「安徳」をあてただけかもしれない(とはいえ、「安徳天皇」以外に用例はない)。海藻おしばの会員の皆様には言い訳に聞こえるかもしれないが、続報をお待ちいただきたい。

それはそれとして安徳布説には、それを支持したくなる魅力が一つある。物語性である。

平安時代の終わり、まだ6歳(数えで8歳)だった幼帝安徳天皇(1178–1185)を抱きかかえた祖母の二位尼(にいのあま)、平時子(たいらのときこ、1126–1185)が、平家一門の敗戦で壇の浦へ身を投じる場面(巻十一 先帝身投)を描いた『平家物語』は、鎌倉時代に成立して以来、今日まで長く読まれ続ける超ロングセラーである。

我をばいづちへ具してゆかむとするぞ (中略) 御涙におぼれ、小さくうつくしき御手を合はせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、浪の下にも都のさぶらふぞと慰め奉って、千尋の底へぞ入り給ふ (中略) いまだ十歳のうちにして、底の水屑とならせ給ふ

【現代語訳】

「私をどこへ連れて行こうとするのか?」 (中略) 幼帝(安徳天皇)が泣き続けながら、小さく美しいお手を合わせ、まず東方に伏して拝み、伊勢大神宮に現世からのおいとまを申し上げ、そのあとに西方へ向いてご念仏を唱えますと、二位殿(平時子)はただちに帝を抱きかかえ、「波の下にも都がございますよ」と帝を慰めながら、千尋の深さの海底へ入って行かれました。 (中略) まだ十歳に満たないうちに、海底の水屑におなりになりました。

この「底の水屑(みくず)」のくだりが、鎌倉時代、平曲を奏でる琵琶法師によって語られ始めると、壇ノ浦が近い伊予か土佐あるいは瀬戸内海周辺の人々は、深い海底から溺死体のように漂着する海藻と、悲運の安徳天皇を結びつけるようになったのではないだろうか。平安の終わり、哀れにも海底で藻屑となられた幼帝安徳天皇の魂が、いまはアントクメとなって浜に打ち上がるのだと。海産動物にヘイケガニ(平家蟹)の例があるが、これほどの悲しい物語を背負わされた海藻は古今、類がないと思われる。

一方、伊豆は壇ノ浦から遠く離れ、しかも平治元(1160)年の平治の乱で敗走した源頼朝(1147–1199)が流刑となって20年過ごした地であり、治承4(1180)年には伊豆国を制圧、挙兵しているから、鎌倉時代以降、たとえ『平家物語』を読んでいても、浜に打ち上がったアントクメをみて安徳天皇を連想するわけにはいかなかったのではないだろうか。ここまで来るともはや妄想と言われても仕方ないが、案外、こうした事情が、伊豆のアントクメが「しわめ」のままの理由なのかもしれない。

アントクメの地方名についてはまだまだ分からないことが多い。「みちなしめ」は生き残っているのだろうか? 「あんとく」に別の意味があるのかどうか? そもそも「あんとくめ」の語源について触れた文献が、川嶋(1989)以前にあるのかどうか。情報をお持ちの方は私(kitayama@kahaku.go.jp)へお知らせいただきたい。商品の写真も送っていただけたら藻っけの幸いである。

藻々   

国立科学博物館 北山太樹